2013年9月9日

東京駅

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東京駅(とうきょうえき)は、東京都千代田区丸の内一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・東海旅客鉄道(JR東海)・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。 ※以下、JR東日本とJR東海を総称する場合は「JR」と表記する。

概要

プラットホーム遠景 (2004年4月22日)
東京の表玄関とも言うべきターミナル駅で、プラットホームの数は日本一多く、在来線が地上5面10線と地下4面8線の合計9面18線、新幹線が地上5面10線、地下鉄は地下1面2線を有しており、面積は東京ドーム約3.6個分に相当する。赤レンガ造りの丸の内口駅舎は辰野金吾らが設計したもので、1914年に竣工、2003年に国の重要文化財に指定されている。「関東の駅百選」認定駅でもある。
東京駅とその周辺駅の位置関係[1] ※注意※東北縦貫線開業後の予定図

乗り入れ路線

当駅周辺のJR在来線の線路名称と運転系統
当駅にはJRの新幹線と在来線各線(後述)、東京メトロの丸ノ内線が乗り入れている。丸ノ内線の駅には「M 17」の駅番号が与えられている。また、当駅を発着するJR線と東京メトロ大手町駅間との連絡運輸は東西線のみ行われている[2]。 JRの駅に乗り入れている路線は、正式な路線名称上は、新幹線が東海道新幹線と東北新幹線の2路線、在来線が東海道本線・東北本線・総武本線・京葉線の4路線であり(詳細は路線記事および「鉄道路線の名称」を参照)、東海道本線を当駅の在来線における所属線としている[3]。管轄会社は東海道新幹線がJR東海、東北新幹線がJR東日本となっている。これら各路線はすべて当駅を起点としており、当駅構内にはこれら各線の0キロポストが設置されている。ただし旅客案内では後述の運転系統名称が使用される。「東北(本)線」は案内上では上野駅発着の長・中距離列車を意味するため、当駅では現在用いられていない。なお中央本線についてもかつては当駅が正式な起点であったが、当駅 - 神田間における東北本線との二重戸籍区間を解消するため、JRへの移行に伴い中央本線は神田駅が起点とされた。ただし、現在でも0キロポストは設置されている。 運転系統では、JR東日本の新幹線ホームには、以下の路線の列車が乗り入れている。
  • 東北新幹線
  • 上越新幹線 : 大宮駅から東北新幹線に乗り入れている。
  • 長野新幹線 : 長野駅 - 高崎駅間は北陸新幹線を、高崎駅 - 大宮駅間は上越新幹線をそれぞれ走行し、大宮駅から東北新幹線に乗り入れている。
  • 山形新幹線 : 新庄駅 - 福島駅間は奥羽本線を走行し、福島駅から東北新幹線に乗り入れている。
  • 秋田新幹線 : 秋田駅 - 大曲駅間は奥羽本線を、大曲駅 - 盛岡駅間は田沢湖線をそれぞれ走行し、盛岡駅から東北新幹線に乗り入れている。
また在来線に関しても多岐にわたる運転系統が発着する。これらの在来線各線のうち、京葉線と武蔵野線が同一の線路を共有している以外は、各系統ごとに専用の線路が割り当てられている。
  • 東海道線 : 東海道本線の列車線を走行する中距離電車および特急列車。
  • 京浜東北線 : 東海道本線・東北本線の電車線を走行する近距離電車。
  • 山手線 : 東海道本線・東北本線の電車線を走行する環状路線。品川駅 - 新宿駅 - 田端駅では線路名称上の山手線を走行する。
  • 中央線 : 中央本線の近距離電車[※ 1]。神田駅から東北本線の専用線を経由して当駅に発着する。
  • 横須賀線・総武快速線 : 両線で直通運転を実施している。当駅以南は東海道本線地下線と支線(品鶴線)を経て大船駅から横須賀線に直通、当駅以東は総武本線を走行する。
  • 京葉線
  • 武蔵野線 : 西船橋駅より京葉線を介して当駅まで直通運転を実施している。
JRでは当駅を「中央駅」と位置付けており、前身である日本国有鉄道(国鉄)の時代から列車の進行方向を示す「上り・下り」の基点となっていた。現在、中央本線は当駅 - 神田間は戸籍上東北本線となっているが、起点であった当駅へ向かう列車が引き続き上りとされている。なお、「中央駅」である当駅は東京都区内および東京山手線内各駅を発着するJR線長距離乗車券の運賃を算出するためのキロ数基準駅ともなっている(前者:201km以上、後者:101 - 200km)。

中央駅としての位置付け

1889年に国鉄東海道本線の新橋 - 神戸間が全通し、私鉄の日本鉄道が上野を始発駅として青森に向けて線路を建設していた。そこで、新橋と上野を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年の第9回帝国議会でこの新線の途中に中央停車場を建設することが可決された。実際の建設は日清戦争と日露戦争の影響で遅れ、建設工事は戦争終了後の1908年から本格化し、1914年12月18日に完成し、同時に「東京駅」と命名された。

建設当時の東京駅

当駅の位置は、江戸時代からの繁華街である京橋側ではなく、建設当時はまだ野原だった丸の内側に建設された。皇居の正面に設定され、丸の内口の中央に皇室専用貴賓出入口が造られたことから分かるように、国家の象徴的な位置付けであった。なお、現在の行幸通りはまだ皇居前広場まで開通していなかった。 駅本屋は、辰野金吾と葛西萬司が設計した深谷市産の鉄筋レンガ造り3階建て総建坪9,545m²・長さ330mの豪壮華麗な洋式建築である。1914年の開業年は第一次世界大戦の開戦の年でもあり、中国・青島周辺のドイツ租借地を占領した陸軍の司令官神尾光臣中将が凱旋して皇居に参内するイベントに合わせて開業式を行った。アムステルダム中央駅は当駅を建設する際のモデルになったという俗説があるが根拠は薄弱であり、1988年以降に藤森照信らを始めとする西洋建築研究者により設計者の系譜や建築様式の両面から、現在ではほぼ否定されている。当時は南北にドーム状の屋根があり、また丸の内南口が乗車口、丸の内北口が降車口と分かれていた。(以降は歴史・年表を参照のこと)

将来の計画

2012年現在、東北縦貫線以外の路線についてはすべて計画段階であり、正式な決定には至っていない。
  • 東北新幹線の当駅延伸の際に撤去された東北本線列車線の秋葉原 - 当駅間を再建させ、宇都宮線(東北本線)・高崎線・常磐線(快速)の各列車が当駅へ乗り入れるとともに、一部列車が東海道本線と直通運転する計画があると発表されている(東北縦貫線計画)。当初は2009年度の完成を予定していたが、計画より遅れ、2014年度の完成を予定している。
  • 首都圏新都市鉄道のつくばエクスプレスが大深度地下を利用して秋葉原駅から当駅に乗り入れる計画がある。駅は丸の内ビルディング直下に建設される予定である。同線は1985年に当時の運輸省運輸政策審議会答申第7号が当駅起点での整備を求めながらも、採算面の問題で秋葉原駅始発へ変更された経緯がある。
  • 大深度地下利用による京葉線の新宿駅経由三鷹駅までの延伸を行い、中央線と直通運転させる延長線をともに2015年までに整備着手するのが適当であるとした。(運輸政策審議会答申第18号による)
  • 京成押上線と京急線をつなぐ浅草線短絡新線により、成田空港から30分台、羽田空港から20分台のアクセスを実現させる構想がある。この計画では京急と京成の通勤電車も乗り入れる予定である。東京駅の設置場所は、丸の内仲通りの直下が有力である[4]
  • 現在、浜松町駅止まりとなっている東京モノレールを新橋駅か東京駅へ延伸する計画がある。完成すれば成田エクスプレスと の乗り換えが便利になり、羽田・成田両空港間の(JR線での)移動時間が短縮される。JR東日本が東京モノレールを子会社化した後、2010年から本格的 な検討を始めた。しかし、東京駅への延伸は新橋駅への延伸と比べると、資金面では1000億円超となる上、工期も長くなってしまう[5]
「東京モノレール羽田空港線#今後の予定」を参照

歴史

詳細は「東京駅の歴史」を参照
竣工当時の東京駅(前庭より)
関東大震災直後、尋ね人のビラが貼られた東京駅警備巡査派出所(1968年、解体。1972年、博物館明治村に移築)
空襲で焼失した東京駅の全景(1945年)
1889年(明治22年)に神戸まで全通した官設鉄道の新橋駅と、私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年(明治29年)の第9回帝国議会でこの新線の途中に中央停車場を建設することが可決された。施工は大林組が担当。 日清戦争とその後の日露戦争が終わった1908年(明治41年)から建設工事が本格化し、1914年(大正3年)12月20日に開業した。中央停車場は皇居(宮城)の正面の原野に設定され、「東京駅」と名付けられた。 1919年(大正8年)3月1日に中央本線が、1925年(大正14年)11月1日に東北本線が乗り入れ、1929年(昭和4年)12月16日には東側の八重洲口が開設するなど、徐々に発展していった。 しかし、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月25日、アメリカ軍による東京大空襲では丸の内本屋の降車口に焼夷弾が着弾、大火災を引き起こした。これによりレンガ造壁とコンクリート造床の構造体は残ったが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われた。 同年8月の終戦直後から修復体制を整えて計画を立案し、年末から1947年(昭 和22年)にかけて修復工事を行ったので、ほぼ現在の外観になった。3つのドーム部分の外壁は修復したが、安全性に配慮してその他の焼失の著しかった3階 部分内外壁は取り除いて2階建てに変更、中央ドームは木造小屋組で元の形に復原、南北両ドームは丸型から台形に変更、軒蛇腹・パラペット・壁面・柱型・窓枠などは2階建てになっても忠実に復元、南北ドーム内のホール天井はローマのパンテオンを模したデザインに変更[※ 2]、といった内容だった。 できるだけ早期に本格的な建て直しをするつもりで「4、5年もてば良い」とされた修復工事だったが、占領軍の要求で突貫で進める中でも当時の鉄道省の建築家・伊藤滋や松本延太郎たち、あるいは工事を行った大林組の日夜の努力でできるだけ日本の中央駅として恥ずかしくないデザインによる修復をした逸話が伝えられている[6]。 一方、1929年(昭和4年)12月16日には八重洲口が開設された。1948年(昭和23年)11月16日にモダンデザイン建築の八重洲駅舎が竣工したが、翌1949年(昭和24年)4月29日に失火で焼失してしまい、1954年(昭和29年)10月14日に駅舎が建て替えられ、八重洲本屋が完成した。八重洲口はその後も順次改築されて百貨店が出店し、地下街が拡がるなど賑やかになってゆくが、丸の内側はレンガ造りのままである。 1964年(昭和39年)10月1日に東海道新幹線が開業し、1972年(昭和47年)7月15日には総武地下ホーム、1990年(平成2年)3月10日には京葉地下ホームがそれぞれ営業を開始、1991年(平成3年)6月20日には東北新幹線が当駅に乗り入れるなど、東京駅は順次拡大してきた。

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